1月12日の『KHAOS』大阪公演に参戦して「めっちゃMOON CHILD見返したくなった!」と思ってから早や5か月近く。

やっと見返しました。

何年ぶりだろう、見るの。10年ぶりぐらいかな。
最初のうちは「毎年4月25日に見る」とか言ってたんだけど、たぶん数年しか実践しなかった、ははは。

4月25日はGACKTさんのソロデビュー記念日であり、私が映画館に『MOON CHILD』を観に行ってソッコーGACKTさんにハマった記念日でもある。

映画は2013年4月19日の公開。今から17年前。
撮影されたのはたぶんその前の夏ぐらいで、GACKTさんはギリギリ20代だと思われる。2013年のお誕生日で30歳なんだよね。当時は年齢は非公表で、「463歳」とか言ってたんだけど。
そんなことすっかり忘れてたよ。
『MOON CHILD』の特典映像に入ってるポスターには「当時46才」ってサインがしてあって……あれ? 462歳じゃないの!?

ともあれ『MOON CHILD』のGACKTさんは可愛い。
本当にねー。たまらんよねー。

見たことない人のためにちょこっとあらすじを説明すると、舞台は架空の街マレッパ。中国語がメインで話されている、アジアのどこかの「経済特区」。
最初は2014年。
日本はすでに経済的に破綻していて、マレッパには多くの日本人移民がいる。もちろんみんな貧しくて、暴動が起き、それが鎮圧され、親を亡くしたらしい移民の子ども達は生きるために大人達から盗みを働いている。

と、ここまででなんか感心してしまった。
今でこそ移民をめぐる諸々って日本人にも「ピンとくる」話題だと思うけど、2003年当時に、「日本人が難民や移民となって排斥されている」ってお話を作る自体がすごくない?

10歳ぐらいの主人公ショウは、兄とトシという仲間の3人でヤクザ者から金をかっぱらって、それは一旦成功するんだけども、いいカモにされた被害者が「ふざけんな、このガキども!」とアジトに乗り込んできて、ショウの兄は足を撃たれてしまう。
で、アジトには子ども3人の他に、HYDE演じるケイがいる。
そのシーンの直前に、行き倒れになってたケイとショウが出会って、ショウはわざわざ大八車みたいのに載せてケイをアジトまで連れてきて、ご飯食べさせてやろうとしてた。

そこへヤクザ者が襲撃に来て、ショウもトシもとにかく逃げるんだけど。
ケイによってあっさり片が付いてしまう。
「おまえの連れてきたやつ、化け物だぞ!」とショウの兄が言うとおり、ケイはバンパイアで、ヤクザ者の血を貪ってる。
でもショウはそんなケイの姿に逃げ出すどころか近づいていって、「怖くないのか?」と驚くケイに微笑んでみせる……。

子どものショウは本郷奏多くんがやってるんだけど、ちっちゃい奏多くんがまた可愛いんだよなー。奏多くん1990年生まれだから撮影当時12歳ぐらい?小学6年生とかかな。

で、その奏多くんショウの笑みがアップになりながら11年後、2025年のGACKTさんショウへとオーバーラップ。
GACKTさんショウはいきなり銃撃戦

映画館で初めて見た時、すごいびっくりしたんだよね。
それまでGACKTさんのことほとんど知らなくて、「アンニュイな感じでボソっとしか喋らない人」だと思ってたから、「え?何?この人こんなに動けるの!?え?こんな大声出せるの!?」って。

アクションシーンがほんとにもう、隅から隅まで私好みでなー。
拳銃弾切れして、ケイが「ショウ!」っつってマガジン投げてそれをくるっと回転しながら二丁の拳銃に見事装着、「ダダダダダっ!」、「グッジョブ」というケイの言葉がかぶる。何度見てもたまらん。
この最初の銃撃戦の会話でショウとケイの関係性がしっかり描かれてるのもいいよね。「死なないんだからよけんなよ!」「俺だって当たれば痛いさ」
バンパイアが死なない、年を取らない、のはいいとして、空中をふらふらジャンプしたり、動体視力がいいのか反射神経がいいのか両方か、ことごとく銃弾をはずしたり、身体能力がおかしいことも描写される。

バンパイアってそうなのかなー。ただ血を吸うだけじゃなく、超人的な動きができるようになるのか。

ショウとケイ、そしてトシは相変わらずヤクザ者たちの上前をはねることで金を稼いでいて、とある襲撃現場で中華系の若者・孫と出逢う。
この出逢いのシーンのアクションがまた!
絵面が最高に好きっ!!!

ちなみにトシは山本太郎孫はワン・リーホン。11年前撃たれた足を今も引きずり、ヤク中になってるショウの兄ちゃんを寺島進さんが演じている。

ショウ、ケイ、トシと孫は意気投合、孫の妹イーチェも一緒に夜の海へ遊びに行ったりして、眩しい青春の一頁を過ごす。ショウはイーチェにすっかり魂奪われちゃうしね。でもイーチェはショウよりケイの方が気になっていたりして。

幸せな時間は長くは続かず、ショウ達がカモにしていた中華マフィア義心会に「ガキがいきがってんじゃねぇぞ」と報復を受け、トシが殺され、そしてケイはバンパイアの素顔を孫達にさらし――。

そのままケイは姿を消し、9年の月日が流れる。
孫は義心会に入り、ショウは数人の仲間と相変わらずヤクザなことをして、「手を組まないか」という義心会の誘いを断り続けている。

前半の「ヤンチャ」なショウもすんごい可愛いんだけど、後半、「ボス」になったショウもめちゃくちゃいいんだよなぁ。オールバックにサングラス、白いロングコートの下にジャラジャラ拳銃ぶら下げてさぁ。ビジュアルも中身も刺さりすぎる。

マレッパを牛耳る義心会の誘いを頑なに斥けるショウ。「おまえら、トシを殺したじゃねぇか」といつまでも昔の仲間にこだわっているショウを、義心会のトップ・チョウは鼻で笑う。「大人になれ」と。

「子どものフリしてやってんじゃねぇか、バカヤロー」ってショウは言うんだけど、実際ショウは子どもなんだよね。子どものくせに、精一杯突っ張って、「ヤクザのボス」やってる。
お兄ちゃんと車に乗って、お兄ちゃんが「この辺もずいぶん変わったな。子どもの頃の思い出なんか、消えちまうんだよな」って言って、でもお兄ちゃんはその昔、足を撃たれる前からずっと「金庫」として使ってたクッキーの缶に今でもお金をしまってる。

「あの頃のままでいたかったのに」があちこちにちりばめられて、でももちろん誰もあの頃のままでいられない中、バンパイアのケイは年を取らない。

「移民の街での若者の青春と抗争」だけでも十分見応えある作品になったんじゃないかな、むしろバンパイアなんか出さない方が世間的には評価高かったかも、という気もするけど、ケイがいる意味ってそこだよなぁ。

「時は流れ、否応なく人は老い、死んで行く」

それを際立たせるための、「死なないもの」。

実際にはバンパイアも「日光に当てといたらあっさり死ぬ」し、外見上年を取らなくても「過ぎた時間」はその心の中に澱のように溜まっていくと思うんだけど、「死なないのは幸せなんだろうか?」っていう。

ずっと行方不明だったケイは某国で「殺人犯」として捕まっていて、ショウは収監中のケイに会いに行く。
このシーンがまたいいんだよ。
うるうるしてしまう。
ショウはイーチェと結婚して、娘が生まれてるのね。そんでその娘の写真をガラス越しに見せて、「おまえに見てもらいたかったんだよ。ジジくせぇな、子どもの自慢なんかしてよ」って自嘲するショウがすごくせつない

トシは死に、ケイはいなくなり、孫も義心会に入り、お兄ちゃんとは必ずしもうまくいってなくて、一人でずっと突っ張ってきたショウのこの9年間が凝縮されたシーンだと思うんだなぁ。
そんでケイはケイで、感情をなくしたようになってるんだけど、ぽつりと「ショウは無鉄砲だから、もう死んでるんじゃないかと思ってた。生きてて良かった」って言うんだよ。

まだトシが生きてる時に、ケイは「いつまでも一緒にはいられない。おまえたちは成長して年を取って、でも俺は変わらなくて……」って言ってて、事件がなくても「いつかはショウのもとを去らなきゃならない」って思ってた。
いつかはショウも死んでしまう。
でも自分は――。

ショウがケイの面会に行ってる間にマレッパではショウの仲間が義心会に殺されてて、一人でチョウをやろうとした兄ちゃんもあっけなく返り討ちにあって、イーチェは脳腫瘍か何かで記憶が混乱、余命いくばくもない。

絵に描いたような「詰んだ状況」になるんだけど、記憶がおかしくなってるイーチェ、ショウに対して「ケイ」って呼びかけるんだよね。自分はケイと結婚してるって思ってるの……。ぐえぇ、つらい。
ケイと面会した時、ショウ自身、「最初はイーチェも俺に気なんかなかったろうけど今は幸せだよ」つってて、でもイーチェの心の中にはケイしか棲んでなかったらしいという。

孤立無援、四面楚歌、自暴自棄になるしかないショウはケイに電話かけて(よく繋いでもらえるよね、殺人犯に)「助けてくれ」って泣きつく。その電話を受けるまでは「さっさと死刑にしてくれ」と言っていたケイもついに心を動かされ、逃げ出してマレッパに戻ってくる。

で、ショウはケイとともに義心会のチョウをやりに行くんだけれども。

ショウと孫の一騎打ちになるのね。孫はチョウの部下になってるから、「お友だちが来たぞ、おまえの忠誠を見せてくれ」みたいにチョウに言われるわけよ。
ショウも孫も「俺たちはこうなる運命だった」と覚悟を決めて銃撃戦をやるんだけど、その間に実はチョウ、あっさり自分とこの若い衆にやられてたりするのよね……。

この展開、すっかり忘れてたんだけど、ショウと孫が戦わなきゃいけない理由はあっさりなくなっちゃってて、しかもチョウを殺すのは他の組織の人間じゃなく「自分とこの若い衆」
すごいなぁ。

映画では孫側の事情はそんなに深く描かれないんだけど(代わりに小説「MOON CHILD~鎮魂歌篇~」で描かれてる)、義心会には「移民の街マレッパで同胞を守る」という側面もあって、貧しい家族を支援したり、孤児たちを組織の下っ端として食って行けるようにしてたりもする。

だからチョウは殺される直前も、「おまえらも孫みたいに立派に組織のために働くようになってくれよ」とかって声をかけてて、立派な若者たちは「俺たちが一番強い」つってあっさり恩義あるはずのボスを殺しちゃう。

いやー、ヤクザ物としてよくできた展開だよね。
真面目な孫が大義のため、同胞のため、自分と同じ貧しい境遇にある子ども達のために、友人であり義弟であるショウを殺す覚悟をしてる一方で、“子ども達”は自分達がチョウや孫に救われてるなんて思いもせず、「目の上のたんこぶ」ぐらいに思ってる。

組織のトップを殺して、「俺たちが一番強い」とうそぶいた彼らはケイにあっさりやられて、ショウは孫に撃たれ、孫はケイに撃たれ――。

みんな死ぬ。

みんな、馬鹿馬鹿しく死ぬ。

ショウはケイに「自分が死んだらイーチェを助けてやってくれ」って頼んでて、ケイはそれを一応は断ってた。バンパイアに血を吸われれば、吸われたものもバンパイアになる。つまりは不老不死に。
病気なんて関係なく、イーチェも元気(?)になれる。

バンパイアなんて全然いいもんじゃない、と思ってるケイはイーチェをそんな怪物にすることはできない、と断ってたんだけど、いざ目の前でショウが死にかけているのを見たら、放っておくことはできなかった。ショウをそのまま死なせるなんてことは――永遠にショウを失ってしまうなんてことは――。

ショウはバンパイアとして生き延びてしまう。

でもそれは救いじゃない。
ハッピーエンドなんかじゃない。

ショウとイーチェの娘ハナが無事成長し、旅立っていくのだけは救いだけど、バンパイアが一人増えてしまったことは。

「今は、イーチェをバンパイアにしなくて良かったと思う」ってショウは言う。
人はみんな死ぬ――呆気なく、往々にしてとても馬鹿馬鹿しく。
でも、じゃあ、生き続けることに意味はあるのか?

ショウと孫がやり合うところなんて、肝心のチョウがよそであっさり殺されちゃってて本当に「2人が戦うことなんてないのよ!(byセイラさん)」なんだけど、でも馬鹿馬鹿しいからこそ人は、愛おしい。

最後、ハナの旅立ちを見送った二人は海を見に行って、そして日が昇って、彼らがそのまま死を選んだのか、どこかへ立ち去っただけなのか、はっきりとは描かれない。
トシや孫と一緒に夜の海ではしゃいだあの日。
ケイがバンパイアだと知らなかった孫が「今度は昼に来よう」って言って、ケイは「そうだな、昼に来よう」って答えた。

果たされるはずのない約束。

でも映画のラストでは、昼の海ではしゃぐ彼らの姿が映る。
ベタな演出だけど、たまらないんだよなぁ。現実にはなかった思い出、でも、それぞれの心の中にはあったかもしれない時間。
もしかしたら、あの世とか、来世とか、魂の世界で。

また、あんなふうに、笑い合えたら。

不老不死を得ても、過去を取り返すことができないのは同じだ。時は移ろい、人も街も変わって、でもそこで繰り返される営みは、存外変わらなくて。

ケイがかつて一緒にいたバンパイアのルカも「海が見たい」と言って、浜辺で日に焼かれて死ぬ(自殺)んだけど、海というか、「寄せては返す波」って、「時間」とか、「繰り返すもの」の象徴なのかもしれない。
繰り返される生と死。
変わるけど、変わらないもの。

孫側にスポットが当たってる小説版を読むと、「ここにケイというバンパイアはなぜ必要なのか?」ってほんと思っちゃうんだけど、でもやっぱり映画のラストで、ショウと二人海を眺める姿があってこそ、より一層「二度と取り戻せない時間」が突き刺さるような気がする。

ただ「みんな死んでしまった」じゃない。
生き続けて、「人」ではないものになって、「人という脆い存在」を眺めるからこそ。

“時をなくしてわかる 死して意味があることを――”


はぁ、やっぱりこの作品好き。
無駄に長くなったので『上弦の月』の話はまた次回。

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