先日、初めて日記を捨てました。
日記をつけ始めたのは小学校の高学年の頃で、最初は必ずしも毎日書いていたわけではなかったんだけど、中学入学からは毎日欠かさず書いてます。
つまり、かれこれ35年くらいずーっと書いてる。
雨の日も風の日も阪神大震災の日も、帰りが遅くなったり色々あって当日書けなかった場合でも、翌日2日分書くなどして「毎日欠かさず」を続けています。

なので。

日記帳がアホほどある。
何冊あるのか数えていないけど、段ボールやら本棚の奥やらに35年分の記憶がズシッと溜まっております。

いい加減入れるところがなくなってきて、直近の何冊かは机の上に積まれていて、このままではいかんなぁ、でもどうしようもないし、と見て見ぬふりをしてきました。
でもちょっと前から、「いずれはこの手で処分せねばならぬ」と考え始めていたのです。私にとっては貴重な「生きてきた証」ではあるけど、振り返ると人生全部黒歴史のような気もするし、まぁ、単純に恥ずかしいですわな、非公開前提で好き勝手書いてる文章を死後に読まれることを想像すると。

で、とりあえず直近の分とこれからの何冊かが入るくらい本棚を空けようと思って、人生で初めて日記を捨てたわけです。全体の数からすれば微々たる処分数で、正直焼け石に水なんですけども、たったそれだけでも私にとっては「大変なこと」で、「ああ……」という感慨がありました。

別に、置いといたからって読み返すわけではありません。直近のところを見返したり、ちょっとした必要に迫られて1年前の日記を調べたりすることもあるけど、10年前20年前といった古いものは段ボールに入って押し入れの中、なのでわざわざ出してきて読みふけったりしません。

基本、書いたら書きっぱなし。

最初の頃――中学生時分には、「小説家になった暁にはこの日記も……」などと考えたことがなかったとは言いませんが(書き始めたのも「文章の練習」という意味がけっこうあった)、途中からは「書くことで気持ちを整理する」がメインになって、もうずいぶん前から「とにかく書かないと気持ち悪い。落ち着かない。日記書かない私は私じゃない」みたいになってます。
だから、当日書く時間がなかった日の分もわざわざ遡って、その日の日付で書く。
まぁ大体「書く時間がないぐらい忙しかった日」というのは宝塚だのライブだのに出かけて「書きたいことがいっぱいある日」なので、書かずにいられないわけですが。

読み返さないのなら――書くことで気持ちを整理するのが目的なら、1年分くらい溜まるたびに古いものから捨てていけばいいようなものですよね。自分でも読まない、他人に読まれるなんて言語道断、顔から火が出るぐらいじゃすまない、ってんなら、「じゃあなんで残してるの?」です。
「捨てればいいじゃん」。

でも、それは「記録」だから。

そこには「二度とは戻らない時間」が詰まっているから。

自分が中学生や高校生だったことがあるなんて、もはや自分でも信じられないくらい遠い日々です。もちろんその時代のことは色々覚えているし、15歳の自分や18歳の自分は今の私の中に構成要素として残ってはいるのでしょう。

でも、もう、15歳や18歳の私はどこにもいません。
去年の私ですら、今、ここにはいません。

もう存在しない人間が書いたもの。

それが残っている限りは、「それを書いた人」がかつて存在していた証拠になるような気もする。
実際には、過去も未来も夢で、「それ」があるからと言って過去の「実在」は担保されないのでしょうが、もういない昔の私の片鱗にいつでもアクセス可能である、と思えるのは、私にとっては重要なことです。

前に「私は記録する」という記事を書きましたが、どれだけ記録してもそのうち全部消えてしまうのはわかっています。だからこそ、自分が生きてる間くらいは残っていてほしいなぁと思うのです。

今とは違う昔の筆跡。雑誌の付録だった懐かしい絵柄のノート。一時期ハマってずっと使っていた色々なデザインのCAMPUSノート、宝塚のスターさんがデザインしたフリーダイアリー。中身を読み返さなくても、ノートの外観だけで「ああ、こんなのあったなぁ」と懐かしく、当時のことが偲ばれる。

捨てられるわけないぢゃないかぁっ!

捨てたけど。

今後も少しずつ捨てていかなきゃ仕方ないけど。

書くのをやめる、という選択肢はないので――手で字が書けるうちは書き続ける所存なので。

私は記録する。
そして、溜め込む。