あけましておめでとうございます。

ひゅうがに年賀状をくれた方々、ありがとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
くれなかった方もよろしくです。良い年になりますように。


などと書いてみたけど、実際に本名の私に年賀状をくれた方々は、数名を覗いてこのblog(本blogの方も)のことなど知らないので、ここでお礼を言ったり「よろしく」と言っても何の意味もない。

そもそも会うことがないので、何を「よろしく」なのかさっぱりわからない。

自分がもらう時にはやっぱり印刷文面だけじゃさびしいから、出す分にも必ず手書きで一言添えるようにがんばっているけど、正直書くことがない。
ン十年会ってない学生時代の友だちに、何を書けばいいのやら。
子どもが小さい時には子どもの話をしていれば済んだところもあるけど(家族写真をもらいたくない人もいるだろうがそこを考え出すともう本当に年賀状が出せない)、さすがに成人した子どものことをあれこれ書くのもな。

しかし自分の近況なんてなんにもない
『ZZ』が面白かった話を年賀状に書いてもしょうがないだろう。(それを書いても笑ってくれそうな友人が1人はいるけど)

あっちこっち痛い話を毎年書くのもわびしいし。

というわけで、「一言」を書くのに毎年うんうん唸る。
昨今は年賀状をやめる人も多いようだし、やめてもいいようなものだが、1月1日に自分宛の年賀状が一枚も届かないのはやはりさびしい。

うちは2世帯同居で、元教師の義父のもとには数百枚年賀状が来るし、届いた年賀状を分ける時に自分宛のものが一枚もなかったら……いくら真正のぼっちでもダメージが大きい。
「今年から年賀状やめたの」と言ってみても、きっと笑顔がひきつっているであろう。

いや、ほんと、年賀状くれた方ありがとうございます。
それも1月1日に届くように出してくださった方、年末の忙しい時にもかかわらずひゅうがにまで書いていただいて。

3日とか4日に届く分は、こちらが出したから返事を出してくれた、という感じなので、もちろんわざわざ返事を出してもらってありがたいのだけど、「なんだ、この人また来たわ」と思われているのではないかと心配にもなるのである。

「去年もこっちから出さなかったのに――もうあなたには出したくないという意思表示だったのに、また性懲りもなく」的な。

そういうことかな?と思ってこっちから出さずにいると翌年元日に年賀状が届いたりして慌てて返事を書いたこともあるので、ここ5年くらいあまり深く考えず「とりあえず全員出しとこう」だったのだが、今年は「もしかしたらこの人にとってはもう迷惑なだけかもしれないぞ」と思って出さない相手が数名いた。

そうすると当然向こうからは届かない。
4日になっても5日になっても届かない。

ふむ。

やはりそういうことなのだなぁ。
まぁ私宛てだけじゃなく全面的に年賀状をやめてる、という可能性もなくはないけど(そういう人は「年賀状をやめました(だから来年からはもう出してこないでね♡)」という返事をくれるものだろうか。)

もうずーっと会ってなくて、伝えるほどの近況もないし、もし直接会うことがあっても何しゃべっていいかわからないぐらいの「友だち」だけれど、1年に1回ぐらいは「どうしてるかな」と思い出すのもいい、と思って出してきた。

まぁ、今後数年は、「出さなくなっちゃったなぁ」と年賀状に取り組むたび思い出すのだろう。

宛先不明で戻ってきて以来、出すに出せなくなった友だちのことも、折に触れ思い出すし。
よしみちゃん、めぐみちゃん、もし良かったら連絡ください。
私の名字も住所も知らないだろうけど。

実家も引っ越してるから、万一あっちに手紙とか出してくれてもそれこそ宛先不明だからなぁ。
中高の同窓会では私自身が行方不明者。
同窓会があったら行きたいか?というと色々黒歴史すぎてアレなのだけれども、義父母や夫が同窓会行ってるのを見ると、ちゃんと連絡がつき続けてるのすごいな、と感心する。

小学校は先生と年賀状のやりとりしてるから、完全行方不明者ではないはずだがしかし、卒業アルバムに掲載されている住所で連絡がつく人(個人情報保護法などない時代なので卒アルに住所が載っている!)どれくらいいるんだろう。
みんなほんと、どこでどうしてるんだろうなぁ。


SNSで常時繋がるというのではなく、年に一回ぐらい思い出すのがちょうどいいから、また今年の年末もうんうん唸るのだと思う。