タイトル思いついたから書いてみよう、と思ったらすでに表blogの方で掃除関連のエントリが4つもあった。
どんだけ掃除が嫌いなのか、俺

掃除嫌いに関する一考察 (2007年)
ああ、「掃除する身体」がない… (2008年)
今年も大掃除鬱 (2009年)
そんなにスッキリ片付いてなくたっていいぢゃないか (2010年)

今回このタイトル、「心を蝕む片付けの呪(のろ)い」というのを思いついたのは、先日母がこちらに遊びに来た時に、「あああああ、片づけておかないとお母ちゃんに怒られるぅぅぅぅぅ」と気が重かったからである。

まぁ結局諸々の都合で母は家には上がらなかったので「相変わらずゴミ溜め」と言われることはなかったし、「たぶん家に上がってる暇ないな」と途中で認識したので「じゃあもういいか」とあっさり片づけを諦めた。というかそもそも「怒られるからやらなきゃ」と思っただけでほぼやってなかったんだけど。

いや、一応、「母が来る」(「シャアが来る」っぽい)というプレッシャーのおかげでいつまでも放置されてた古いPC用ディスプレイ(Gateway使ってた頃のやつ)をやっと処分したり、ずっと見ないふりしてた箪笥の上の箱(空のもあったし、中身が入ってるものもあった)もいくつか苦労して捨てたし(古い箱、ホッチキスが頑丈すぎてなかなか解体できなかった)、PC机の上もかなりスッキリさせた。

それだけでも十分私にとっては「めっちゃ片づけたぞ、ゼーハー」だったんだが、しかし全体から見ると焼け石に水だし、そもそも箪笥の上の箱とかなくなっても「そこにあったことを知っていた私」にしか片付いたことがわからない。地震の時には落ちてくるかも知れないからアレだが普段は別に通行の邪魔でもなく、だからこそずっと放置してたものがなくなっただけで、大勢に影響がないにも程がある。

記憶フェチ&記録フェチとしては様々なガラクタも重要な「記録」であって捨てられないので、まぁちょっとぐらい片づけても全然片付かないわけですよ。

で、物が溢れているとそこに埃が溜まって、動かすとよけい埃が舞い立つわけで、「動かさなくても掃除できるところしか掃除しない」結果、見ないふりしていたところが年末にえらいことになっているわけですね。

わかっているけどやりたくないものはしょうがない。

とりあえず死なない程度に生活できてるし。

橋本治さんが『ぼくたちの近代史』の中で、「家がきれいになっても、俺はきれいにする側だから、それを享受できない」と書いてらしたけど、ほんと、私の場合「掃除とか片づけは母に褒められるため、怒られないためにするもの」でしかなくて、きれいになったところで私自身はそこに喜びを見出せない。

世の中のきれい好きな人はきれいにするのが自分であってもその「きれい」という状態を享受できるんでしょうけど、私にはそういう回路は備わっていないので。

「あー、しんどかった。この時間を他の好きなことに使いたかった」としか思わない。

いや、まぁ、「この時間」というほどの時間を当てることはまずめったにないんですけども。

と謙遜せずにいられないところが「呪い」であって、掃除嫌いなのに「掃除はしなくてはいけないもの」「もっとちゃんと片づけなきゃいけないもの」という“常識”(?)はきっちりインストールされてしまっているからそこの葛藤がめんどくさい。

本当に、心の底から、「死なない程度に片付いてりゃいいじゃ~ん♪」と何の屈託もなくのほほんとしていられたら楽なのになぁ。

「自分はちゃんとできていない」という負の自己評価あればこそ、こんな言い訳をつらつら書いているわけで。

ちょっと前に、いわゆる「片づけ魔法」にアメリカ人女性が反発、的な話を見たけど、私もなるべくあれには近づきたくない。テレビや雑誌でやたらに「片づけ法」みたいなのが特集されるのも、「こんなふうにすればできるんだからやりなさい!」という脅迫にしか思えないので目に入れたくない。

「やらなきゃいけない」のはわかってるんだから、これ以上プレッシャーを与えないでほしい。「こうすれば簡単」というのは、「簡単なんだからやれ」「おまえはこんな簡単なこともできないのか」でしかないんだから。

いわゆる「キャラ弁」的なやつも、そういうことに労力を割きたくない人間の身にもなってくれと思うし。やりたい人がやるのはいいけど、煽らないでくれと……。

もちろん向こうにそういうつもりはないのでしょう。
こっちが勝手に被害者意識を募らせてるだけ。

「呪い」なんだよな。


(解体が大変だった箱。中身はだいぶ前に処分済み。なんで箱だけおいておくかな(´・ω・`))