人生は死だ。
死は人生の中にある。
心から愛する人を腕の中に抱きながら、
彼女がいつかはそうなるはずの骸骨を見ること。
あなたの愛が死につながること。
死が人生のすべてであること――
それはわたしが知っていることだが、
知りたくないことだし、
わたしにとっては耐えられないことだ。
わたしをおいて行かないでくれ。
バリー、まだわたしと別れないでくれ。
『今夜の私は危険よ』コーネル・ウールリッチ(高橋豊訳) P335より)
『今夜の私は危険よ』に収められているバリイ・N・マルツバーグ 氏の 「ウールリッチについて」という小文で紹介されているウールリッチの言葉。
ウールリッチの作品は死に満ちている。
死に彩られ、「死そのものだ」とさえマルツバーグ氏は言う。
彼の作品が醸し出す独特のさびしさは、「いずれ自分は死ぬ。みんな死ぬ」というどうしようもない怖れと諦めと哀しみから生まれているのだろう。
その圧倒的なさびしさが、私を深く魅了する。
ウールリッチの作品の中では、しばしば「愛しい人」が忽然と姿を消す。
ただ行方不明になるだけでなく、「彼女がいたこと」を証明できなくなる。
誰に聞いてもそんな女は知らないという。
警察に捜索願を出そうにも、「そもそもあなた本当に結婚してたんですか?妄想じゃないの?」と嗤われてしまったりする。
彼の代表作である『幻の女』も、アリバイを証言してくれるはずの女が見つからず、女の手がかりを探して奔走する話だ。彼女を確かに目撃していたはずの人間たちが一様に、「そんな女は見かけなかった」と言う。確かに一緒に食事をし、劇場に行き、言葉を交わしたはずなのに、「罪を免れたいがためのでっち上げだろう」と言われてしまう。
ただ行方不明になるだけでなく、「彼女がいたこと」を証明できなくなる。
誰に聞いてもそんな女は知らないという。
警察に捜索願を出そうにも、「そもそもあなた本当に結婚してたんですか?妄想じゃないの?」と嗤われてしまったりする。
彼の代表作である『幻の女』も、アリバイを証言してくれるはずの女が見つからず、女の手がかりを探して奔走する話だ。彼女を確かに目撃していたはずの人間たちが一様に、「そんな女は見かけなかった」と言う。確かに一緒に食事をし、劇場に行き、言葉を交わしたはずなのに、「罪を免れたいがためのでっち上げだろう」と言われてしまう。
存在の不安。
確かだと思っていること。私やあなたが確かにこの世界に生きて、存在していると思っていること。
それは、本当に確かなことなのだろうか?
ウールリッチの晩年の作品に『選ばれた数字』(『耳飾り~ウールリッチ傑作短編集5~』所収)という、絶望的なお話がある。
若い夫婦が人違いで殺される、ただただその恐怖を追体験するだけの物語。「もしかして途中で人違いだって気づいてくれるかも?」というこちらの淡い期待もむなしく、二人はむごい殺され方をする。
そこには何の救いもなく、ただ「人生の理不尽」があるだけだ。
明らかな犯罪ではなくても、私たちは理不尽に殺される。
酔っ払い運転や信号無視が原因だったとしても、その暴走車と「他でもない私」が出逢ってしまう理由は何もない。たまたまそこをその時間に通りがかっただけ。
福知山の脱線事故の時、私の父はホームであの電車を見かけている。でもたまたまその時は寄り道をしようと思いついて乗らなかった。
乗っていたら事故に遭っていたかもしれない。
いつもは乗らないのに乗っていた人。
乗るはずだったのに乗らなかった人。
事故が起きた原因が特定されても、たまたまそこに巡り合わせてしまったことは――それが自分の乗っていた電車(あるいは乗らなかった電車)で起きてしまったことは、説明がつかない。
若い夫婦が人違いで殺される、ただただその恐怖を追体験するだけの物語。「もしかして途中で人違いだって気づいてくれるかも?」というこちらの淡い期待もむなしく、二人はむごい殺され方をする。
そこには何の救いもなく、ただ「人生の理不尽」があるだけだ。
明らかな犯罪ではなくても、私たちは理不尽に殺される。
酔っ払い運転や信号無視が原因だったとしても、その暴走車と「他でもない私」が出逢ってしまう理由は何もない。たまたまそこをその時間に通りがかっただけ。
福知山の脱線事故の時、私の父はホームであの電車を見かけている。でもたまたまその時は寄り道をしようと思いついて乗らなかった。
乗っていたら事故に遭っていたかもしれない。
いつもは乗らないのに乗っていた人。
乗るはずだったのに乗らなかった人。
事故が起きた原因が特定されても、たまたまそこに巡り合わせてしまったことは――それが自分の乗っていた電車(あるいは乗らなかった電車)で起きてしまったことは、説明がつかない。
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